20180311 Sun
ゲッコーコーヒーのこと


雑誌『CASA BRUTUS』の4月号は、「カフェ&ロースター」特集。
一応コーヒー好きの私、表紙のイラスト担当が引っ張りだこのKYNEさんということもあり、思わず買ってきた。
内容は、『CASA~』が建築の雑誌ということもあって、店構えの写真が多く、コーヒーの味や、現在のコーヒー業界の潮流などはあまり詳しく書かれていない。
「サードウェーブ以降のコーヒーは……」なんて書いてあっても、それらが具体的に掘り下げられることもなく、ちょっと肩すかしだった。おそらくは、そこらへんのリテラシーをお持ちの方が普段から読んでいるのだろう。
あと、たとえばしょっぱなに載っているKOFFEE MAMEYAに、僕はシラフで行く自信がない。
個人的に、東京に対して愛憎あるので、つい虚勢を張った言い方になってしまう。
もちろん、すべての店が庶民的であれ、なんて言うつもりはさらさらない。
この店に行くことがステータスになる、というのならそれはそれで良いのだけれど。
各地のコーヒースタンドの店構えを1ページに3つずつ載せたページ。これの京都と沖縄が良かったので、もうこのページのために買ったと思おう。
いつか行きたい栄町市場。(宮里小書店もあるし)

さて、この号に掲載されているお店の一覧地図が、特集ページのはじめにあるのだけれど、もちろん我らが三重県は飛ばされている。
逆に言えば、岡本仁(このマップに載っている店の多くが、岡本仁のインスタからの転載特集のお店であり、いわば水増し……ゲフンゲフンなんでもありません)ですら発見できていないお店を、我々は発見できている、ということになる。
またここで虚勢を張ることになるけれど、岡本仁のあとを追うのではなく、もしも岡本仁が三重に来たときに「あの喫茶店は良いッスよ」って教えることができる方が、すごいことのような気がする。


というわけで、僕が紹介するのはもちろん、「ゲッコーコーヒー、良いッスよ」となる。

近頃、津市大門商店街の一角・ランタン通りに、リノベーションによっていろいろと面白い店が出来ているのだけれど、ゲッコーコーヒーはそのうちの一軒だ。
一軒、と言ってみたものの、はっきり店舗と言えるかどうかは怪しい。
なんせ、ゲッコーコーヒーには壁も天井もない。
かつて中国にあった魔窟・九龍城よろしく、ランタン通りの店舗は、建物の持ち主たちによる古い時代のセルフビルド、ぶっちゃけて言えば違法建築によってやりたい放題にされた結果、店の連なる屋上にぽっかりと、そこだけが誰からも忘れられたような空間がある。
ゲッコーコーヒーはそのスペースに、店主一人分のスペースしかない屋台と、何人かが立ち飲みできる簡素な台と、ビールケースにクッションを載せたイスを並べて、晴れた夜にだけ営業している。
川口葉子の名著『屋上喫茶階』の夜バージョン、といった店である。

店名の「ゲッコー」はもちろん「月光」、かと思いきや、元々は「下戸(げこ)」だったらしい。
大門商店街にあるのは夜の飲食店。訪れるほとんどの人は、お酒を飲むことを目的としている。
そんな場所での多数派になれない、つまり酒の飲めない下戸の人たちが集まる場所になれば、というような目的があったのかどうか、店主が店名を聞かれ「ゲコ」と言ったのが、客の口伝いにいつのまにか「ゲッコー」となまった、という説が有力。
(なにせこの店には看板がないので、ゲッコーの正式な表記も曖昧である)

しかし、ゲッコーという名も伊達ではない。
メニューはコーヒーのみ。深煎りのブレンドをネルドリップでいれてもらう。
このお店は天井がないので、晴れの夜にしか営業していない。
晴れている夜、月をカップに浮かべて真っ黒なコーヒーを飲むのである。
下戸でも李白の気分がほんの少し味わえる瞬間だ。
子どもの頃に親にねだって飲ませてもらい、思わず吐き出しそうになった、大人の飲み物。
そんな懐かしくも感じるようなしっかりとした苦味。鼻へと抜ける香ばしさ。
階下の賑やかな酔客たちの声を聞きながら、夜空のような飲み物を。
なかなか乙だとは思いません?



と、久しぶりに、真顔で嘘を言ってみた。
モデルにしたのは、足利の屋台カフェ・アラジンです。
おつき合い頂きありがとうございました。




20160302 Wed
トンネルにて


「タケシ?」

左のほうから、女の人がぼくをよぶのが聞こえました。
どっかで聞いたことがある気がしたけど、だれかぜんぜん思いだせません。
思いだそうとしてがんばって考えてるうちに、
ぼくは体がうかぶような感じがしました。
風をひいちゃって、ねつが高いときみたいに、
ぼくは動かしてないのに、ゆらゆらーって、
体がひとりでに、左から右へ動いていくような気がしました。
さいごに、ボートが着いたときみたいに、
トンッて、動くのが終わった感じがありました。


「タケシ、大丈夫か?」

目を開けると、バックミラーが見えて、そこで、
お父さんがちょっと心配だという顔をしているのが見えました。

「うん……、ちょっと寝てたみたい」
「そうか」

起きたばっかで頭がぼーっとして、のどもかわいていました。
なにか飲みたいなと思ったけど、お父さんは車を運転しているのでがまんしました。
となりを見るとケイコがぬいぐるみみたいなのであそんでいます。
今日はカエルじゃなくてクマみたいなやつだなと思いました。

まだちょっと頭がぼーっとしているので、車の横のガラスに頭をくっつけました。
つめたくて気持ちがいいなと思いました。
いまはトンネルをくぐっているので、ごうごうという音がします。
オレンジの電気がいっぱいあって過ぎていきます。

ぼくは気づいて、あれっと思いました。
みどりの服だったはずなんだけど、いつのまにか服が変わっていたからです。
けど頭がぼーっとしているので、ぼくの気のせいかもしれないと思いました。
もしかして、電気がオレンジのせいかもしれません。


けど、そのとき、<平行世界>、ということばが急に思い出しました。

それは、ぼくがいる世界とはちがった世界のことです。
そこは全然ちがってたり、ちょっとだけちがってたりすることがあります。
そしてそれは、もしかすると、ぼくがいたかもしれない世界なのです。
だからそこには、ちょっとちがったぼくがいるかもしれないし、
もしかするとぼくはいなくなってるかもしれないのです。

こんな話、だれに聞いたんだっけ?
さいとう先生? ゆみちゃんのお兄さん? テレビ?
またやっぱりちゃんと思い出せません。
もう一回がんばって考えようとしましたが、
車がすごいスピードで走ってるのでジャンプして、
頭がごつんとガラスにぶつかってしまったので、やめました。

もしかするとちょっとだけちがった世界っていうのは、
ぼくのすぐ隣にあるかもしれません。
ほとんど同じに見えるけど、ぼくとはちがったぼくがいて、
ケイコとお父さんだけじゃなくて、お母さんもいるのかもしれません。

……お母さん?


ごちんっとまた頭をぶつけてしまいました。
ふだんはすごく運転がうまいのですが、
今日はいつもよりお父さんは急いでいるような気がします。
ぼくもケイコも、どこへ行くのかよく知りません。
けど、けっこう長いトンネルだなあと思いました。


ぼくが生まれる前くらいにUFOが見つかって、
その宇宙人が地球のけっこう近くから来ていることが分かりました。
それまで宇宙人はいないと言われてましたが、
なにも無いと言われていた場所に、宇宙人の星があったのです。

宇宙人は地球人よりすごい力がありました。
たとえば前にお父さんは目が悪かったみたいですが、
けど宇宙人のお医者さんのおかげで目が見えるようになりました。
もっとたくさんの地球人が宇宙人のおかげで助かりました。
だからいま、地球人にはやることがなくなってしまいました。

いまケイコが持っているのも、すごくかわいいけど宇宙人なのです。
ぬいぐるみとちがって生きてるのでもっとかわいいし、
地球の犬やネコとちがってウンチしたりしません。
だからすごく人気があるのですが、宇宙人のことがきらいな人もいます。
お父さんがそうです。

ケイコが生まれてすぐに、宇宙人のために、
たくさんの女の人が宇宙に行くことになりました。
ぼくは顔を覚えてませんが、ぼくのお母さんも一緒に行きました。
ぼくはすごいことだなと思うのだけど、お父さんはすごく悲しかったらしいです。

地球人の女の人がまた宇宙に行くことになって、
こんどはケイコも行く人に選ばれました。
ケイコは宇宙人が大好きだからよろこんだのですが、
お父さんは誰かにおこったり、あまりうれしそうじゃありませんでした。
それで今日、ぼくとケイコに言って、車ででかけました。


お父さんがどこへ行くのか知りませんが、<平行世界>に行けたら、
いまの世界とはちょっとちがってて、
もしかしたら宇宙人が来ていないのかもしれません。

そういえば、さっきぼくを呼んだ女の人は誰だったのだろうと思いました。
ちがうかもしれませんが、もしかして、お母さんだったかもしれません。
きっとお母さんがいたらお父さんもうれしいと思うので、
ここじゃなくて、そっちの世界のほうが正しいのかもしれません。
やっぱり、こことその<平行世界>ではちがうところがあるのだと思います。

どこかが、5つくらい。




CIMG0808.jpg
(中日新聞カレンダー2016年3月より)






20150225 Wed
魚とか待つ


 すこし雲がかかっているが、暖かく、過ごしやすい日だ。ベランダの手すり越し、すぐ足元の海めがけて釣竿を振る。ひゅいっ。風もほとんどなく、釣り針は狙った場所へと飛んで行った。ぽちゃんっ。水面に小さな波紋が出来た。
 部屋の中からシバタが出てきた。手には缶ビールと灰皿、口にはタバコを1本。よぅーす。うぃ。言葉になっていない挨拶を僕らは交わす。名前の知らない大きな鳥が2羽、太い鳴き声をあげながら飛んでいった。そういう感じで。
 シバタは手すりに灰皿を置く。スエットのズボンから100円ライターを取り出し、タバコに火を点けた。くわえタバコのまま缶ビールを開ける。プシッ。タバコを右手の人差し指と中指ではさみ持ち、じゅるじゅるという音を立ててシバタはビールを一息でずいぶんと飲み込む。特に喉が渇いているわけではないけど、見ているだけでビールが飲みたくなるような飲み方で、3分の1かそこらを呑み終わったあたりでシバタは缶から口を外し、わざとらしくない程度の吐息をついた。くはぁー。

「なにか釣れるの?」
「どうだろね」

 手すりによっかかり、揃って水の中を覗き込む。僕が住んでいるマンションの隣の隣にはファミリーマートがあり、ボンベを担がなくとも気合を入れればまあビール1缶くらいなら買ってこれるかなという距離。海底に沈んだいまでも絶賛営業中で、人が入っていくのが見える。道を歩いている人たちは結構いて、平日だし仕事中の人たちなんだろう。僕は平日が休みで、シバタは在宅仕事をしている。
 シバタが吐くタバコの煙は風に流れることもなく、しばらく漂っては消えていく。中型のモーターボートが結構なスピードで道を走っていった。ボートに乗ったスーツの一群が羨ましそうにこちらを見ている。僕とシバタは割りと大きめに手を振ってそれに応えた。

「なあ、シバタ」
「んー?」
「今日さ、どっか行く?」
「いや、いいよ」

 竿を持っているのもそろそろだるくなってきた。いつ止めたものかと考え始めている。手すりにひじを置いてタバコを吸いながら、シバタは建物の隙間の向こうをぼんやりと眺めている。浮きはまだ沈まない。魚なんてきっといない。




20141022 Wed
喫茶 方向音痴


 低血圧の朝は辛い。低血圧で低気圧の朝はもっと辛い。
 今日は大事な約束があった。朝から雨。ほんと僕って雨男だよなぁ、としみじみ思う。起きなきゃなー、用意しなきゃなー、と思いながら二度寝。昨晩は緊張につきよく眠れなかった。昼前までウニャウニャゴロゴロして、シャワー浴びて、トースト食べて、服をさんざ迷って劇場版のドラえもんのごとく部屋をとっ散らかし、つまるところ寝癖さえついてなきゃ大丈夫なんだよ多分、と結局ギリギリに家を出た。

 もしかすると待ち合わせ場所周辺は晴れてるかも知らん、お頼み申したぞ道真公! と小学生のような望みをかけたものの、電車で20駅も行かない場所で気圧配置が変わるはずもなく。待ち合わせ時間少し前には駅へ辿りついた。そぼ降る雨に濡れて肩をすぼめながら歩くこと百メートル。僕が喫茶店に来るときは大抵雨が降っているような気がする。
 毎度、この喫茶店を待ち合わせに指定されるので、分かってはいたはずなんだけれど、やはり階段の前でしばし躊躇した。とりあえず傘をたたんでみる。目の前にはたしかに階段がある。これをのぼれば喫茶店には着く。単純なことだ。小学生にも分かる理屈。
 そんな理屈を屁理屈に捻じ曲げてしまっているのは、階段が15階までひたすら続いているという現実だ。
 いやさ、小学生なら一気に上れるだろうけどさ、三十路前の男にゃただただキツイだけだぞ、っていうかさ、バリアフリーとかさ!!! といつものように気合を入れて、階段を駆け上った。まぁ、威勢が良かったのは4階あたりまでだったのは言うまでもない。

 息も絶え絶えに15Fに辿りつく。残念ながら、勝負はまだ始まっていないのだ。鉄球を付けたように重い足を引きずり、建てつけの良いスイングドアを開けた。湿った木の匂いがまとわりつく。
「いらっしゃいませ」
いつもの店員さんがゆったりとした口調で迎えてくれた。名札が無いためにいまだに名前は知らない。目の下あたりで真っ直ぐに切りそろえられた黒髪、クラシックなメイド服にも見える制服。なによりその肌の色。人形よりも血の通って無さそうな、白。
「あの、待ち合わせなんですけど」
「はい、承知しております、お連れ様は」
 頼む、今日くらい、優しくしてくれても
「一番奥のお席でお待ちです」
 やっぱり非情なのな。

 最低限の言葉だけで歓迎は終わり。店員は、レジカウンターの横に置いてあったカンテラを持ち、ついと先を歩き始めた。ミシと床が鳴る。あわてて後を追った。店の奥へと進む。下りの階段がある。降りたところで左右に通路があるのが見える。道幅も天井も狭い。周囲は木の板が打たれている。薄い板だ。踏むたびにきしむ音がする。キイキイ。店員が左に曲がる。それに続く。上りの階段。ミシリミシリ。通路に、窓は無い。灯りも無い。階段の先は闇である。どこまで続いているのか、まったく分からない。階段を少し上ったところで店員がカンテラに火を入れる。ちょうど二人分を包む暖かな光。階段を上り終わったところで、左右に道が分かれている。右へと進む。下りのスロープになっている。大回りに左に曲がりながらゆるやかに道は下っている。いや、いつのまにか体が自然と前のめりになっている自分に気付く。とすると、これは上りか。やや右に体が傾いた気がして、壁に手を付く。前を行く店員の姿勢はまったく崩れていない。自分だけの錯覚なのか、しかし重心が右に寄っていく感覚はどこまでもどこまでも続く。道が捩れているようだ。どんどんと捩れはひどくなる。狭い通路。景色はまったく変わらない。三半規管が変になりそうだ。いよいよ右手に力をこめなければならなくなったとき、通路の先に再び分かれ道が現れる。右へと行く上りの階段。左斜め下へと行く下りの階段。どこまで続くのか、真っ直ぐの上り階段。ギシギシ。店員はそのまま真っ直ぐに進む。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ。あとを追う。なんだか体が後ろに傾いていく気がする。はたしてこの階段は真っ直ぐに上っているのか、前を行く店員を見る。店員の姿勢は一向に変わらず淡々と前へ上り続けている。後ろを振り返った。さきほど分かれた道が、45度ほどに傾いて見える。やはり、この階段は反っている。このまま行けば重力にしたがってどこかで頭から落ちてしまう。はずだが。再び前を向く。やはり店員の姿勢はまったく変わっていない。淡々と前へ進む。
 はじめてこの店に来たときに教えてもらったおまじないを、また今回も使わなければいけないようだ。目をつぶった。自分がどこにいて、どの方向へ向かっているのか、まったく分からなくなったときのおまじない。目をつぶったまま、3つ数え、開ける。店員がさきほどより少し進んだ場所を歩いている。その背中だけを見て、進む。体が後ろに傾いた感覚は、もう無くなっていた。木製の螺旋階段が現れた。上下どちらへも行ける。どこまで上るのか、どこまで下るのか。はたしてそれは、外界でいうところの上なのか下なのか、もはや僕には分からなくなっていた。
 何本の分かれ道を通ったのか。どれくらい階段を上り下りしたのか。この右はあの右なのか、この左は例の左なのか。三次元座標での現在地を完璧に見失った頃、ようやく通路の先の小部屋に、別の灯りが見えた。店員は入り口で脇に寄って、僕を先に通してくれる。僕を導いてくれたカンテラは、部屋の入り口近く、邪魔にならないところに置かれた。
 先にテーブルの上に置かれていたカンテラが、待ち合わせ相手の顔を照らす。改めて見ても小憎らしいくらい整った顔立ち。読んでいた本をテーブルの上に置き、メガネを取る。ふー、と、タバコの煙を吐くように、細い長いため息をひとつ。黒目の大きな瞳が、こちらを向いた。いつも少しだけ不機嫌そうに見える表情からは、何を考えているのかまったく窺い知ることが出来ない。女性にしては低めの、冬毛キツネの前脚のような感触の声が、抑えたボリュームでこぼれた。

「……遅いよ」
「アホか! そりゃ遅れるわ! 毎度毎度一番奥の席ってなんの嫌がらせなんスか!!」
「だって寝癖さんの嫌がる顔、見たいんだもん」

シンプルなわがままは正論をぶっ倒す。
丁目 伎梨(ひのとめ あやり)のやり方はいつだってそうだ。

「じゃあ!じゃあ!すみません、とんこつラーメンにんにく増し増しをください!
 この小部屋を肉と脂の匂いで一杯にしてやりますよ! ぐはははは!」
「嫌がらせの相手を間違うことほどバカなことは無いよ」
「じゃあーあー!……すみません、ホットコーヒーで」
店員が小さく「かしこまりました」とだけ言って下がる。さすがに歩き疲れていたので、くたりと椅子に座り込んだ。ボロボロの僕の様子を見て伎梨さんが不機嫌そうな顔をしまい、実に楽しそうにニッコリと笑った。
「ごめん、ちょっと走って喉渇いたので、水をもらってもいいですか?」
「はい、どうぞ」
もちろん芋焼酎のロックだった。盛大に吹き散らかした。
「きたねーな!」
「子どもなら急性アル中で死んでるぞ! 水をくださいって言ったでしょうが!」
「これが、私にとっての、水なんだよ」
ほぼほぼ連日酒宴を行なう伎梨さんがそうと言うなら、そうなのだった。
 どこをどう通ってきたのか、あっという間に運ばれてきたホットコーヒーと、水のしたたる焼酎グラスで乾杯。何かが間違っている気がするが、この場ではあくまで僕の気のせいなのである。
「で、今日は何の用事ですか?」
「寝癖さん、最近なんか面白いことあった?」
「え?」
「うん?」
「それ用事?」
「うん」
「それだけ?」
「うん、悪い?」
迫っている締め切りがいくつかあるんだけど、と僕の口が良いかけたのをあわててつぐんだ。とにかく伎梨さんとの待ち合わせは常に大事な約束なのだ。もうこれは絶対。伎梨さんはこの世の真理を司る神のような人なのだ。と、僕は信じ込んでいる。周りはどうあれ信仰とはそのようなものなのである。と、無神論者の僕は思う。椅子に思い切りもたれかかって、これまで浮かべたことの無いような嫌そうな顔をして。
 「いやー、寝癖さんの嫌がる顔って、やっぱ良いよねー」
うなづきながら、まったく小憎らしいくらいに整った顔で、楽しそうに伎梨さんが笑う。うん、まあ、この顔をまた見られたというだけで良かったのだよ。ほんとに。
 伎梨さんの笑い声の隙間、どこかで木の板を踏む音が聞こえた、気がした。




20141001 Wed
弘前照子、ときめきに死す。


 弘前照子は行き遅れた。

 弘前照子の容姿は悪くない。どちらかといえば美しいほうである。芸能人とまではいかないが、好きな見た目だと言う男は多いだろう。
 性格だって問題ない。酒や博打はもちろん、ほかの悪い癖もない。優しく健気、それでいて明るく快活。妻としても、母としても、理想的な性格をしている。
 家柄。真面目な父、優しい母。絵に描いたような幸せな家庭だった。両親ともに人格者で、弘前照子を一所懸命に育てた。弘前照子には2歳上の兄がいる。兄は職場で出会った女性と結婚し、子どもを1人授かった。両親、兄夫婦、少しの喧嘩はもちろんあったが、それらを乗り越え仲睦まじくやっていた。

 幼稚園生の頃の弘前照子の夢は、およめさんになること、だった。これは当時の幼稚園の女子の間での流行でもあったのだが、弘前照子は幼いながらも真剣におよめさんに憧れていた。
 小学生の弘前照子は、人気の女子たちとも、暗めの女子のグループとも、そして男子とも、分け隔てなく仲良く遊んだ。裏表のない明るい性格の弘前照子は皆から好かれていた。かと言って、代表に祭り上げられるようなことはなく、そのような状況になったときも上手くかわした。つねに全体の様子を見ているような、冷静な目を持っていた。この時期、女子は一気に大人びていく。弘前照子もだんだん男子との付き合いに対して意識的になっていった。恋愛というものに憧れを抱いた。たとえばテレビドラマ、映画、少女マンガや、先に中学生になっていた兄の話の影響もあり、いっぱしに理想のタイプも出来上がってきた。さすがにもう口にすることはなかったがやはり、およめさんになること、芯の部分では変わらず夢見ていた。
 中学生のとき、弘前照子に初めての恋人が出来た。
 弘前照子は小学校からの友人の誘いでテニス部に入っていた。弘前照子の中学のテニス部は県内でも強豪で、練習はかなり厳しいものだった。友人がひとり、またひとりと辞めていくなか、弘前照子は持ち前の努力と根性で喰らい付いた。結果、弘前照子はメキメキと力を伸ばしていった。もともと運動神経は良かったが、天賦の才があったのだろう。1年生にして、夏の大会に異例の抜擢されたのだ。2年の先輩とダブルスを組み見事に県大会を突破、なんと全国大会まで進出することになった。慣れない環境での疲労がたたり、1回戦ストレート負けを喫することになるのだが、それでも快挙であることに間違いはなかった。
 さすがに中学生ともなると、生徒全員と仲良くやっていくというのは不可能になる。ましてや夏の大会で目立ったせいもあり、弘前照子は孤立することになってしまった。元々一歩引いた場所に身を置いていたし、明確にイジメの標的になるような人間ではなかったので、そこまで酷いものではなかったが、もちろん居心地は悪かった。特に部活には居づらくなり、顧問の説得を振り切って退部した。部活を辞めても、一度離れていった友人たちが戻ってくることはなかった。
 家に篭りがちになった弘前照子のことを、妹思いの兄が心配するのは当然だった。兄は自分の友人を紹介することで、弘前照子のことを元気付けようとした。弘前照子の兄は吹奏楽部に所属していたため、文化系の友人が多かった。皆とても優しい人ばかりだったが、なかでも弘前照子に良くしてくれたのは、文芸部で部長を務めていた先輩だった。小説の知識が豊富なのはもちろん、先輩には姉と妹がいて、弘前照子の好きな少女マンガについてもずいぶん詳しく、話が盛り上がることが多かった。しかし知識を鼻にかけることもなく、どちらかというと弘前照子の話の聞き手に回ってくれるような、謙虚で物静かな性格だった。理想のタイプとは少し違ったが、弘前照子は徐々に先輩に惹かれていった。
 弘前照子と先輩が深い仲になるのは時間の問題だった。とは言ってもそこは中学生、付き合い始めてもやることは今までと変わらずお喋りくらいで、恋人らしいことといえば探り探りでキスをしただけだった。そのときのことを弘前照子ははっきり覚えている。夕日の射す部屋でも分かるくらい、弘前照子の頬は果実のように赤く染まっていた。先輩が兄とは別の高校に進学すると、やがて会う回数も少なくなり、いつの間にか恋は自然消滅してしまった。若い勢いと言われればそうかもしれないが、弘前照子は先輩との思い出を今でも大切にしている。
 高校では先輩への想いを引きずって文芸部に入部した。運動部と違ってそれぞれがマイペースに活動できる自由さは、弘前照子にとって心地良いものだった。3年間通じて文芸部に在籍し、主に詩を書いた。充実した楽しい部活だった。どこかで先輩とまた会えることを願っていたが、叶わなかった。中学の反省から、クラスでは目立たず沈まず、ちょうど良い場所に収まっているように努めた。おかげで何事もなく卒業まで過ごすことが出来た。容姿の悪くない弘前照子は黙っていても男子生徒に告白されることが何度かあったが、先輩への想いを断ち切れず、その全てを断った。
 弘前照子は隣県の国立大学の文学部に合格した。それを機に1人暮らしを始め、キャンパスライフを謳歌した。新しい生活のなかで、先輩のことはいつの間にか吹っ切れていた。引き続き文芸サークルに所属し、積極的に同人誌などに投稿もした。何人かの男性と恋愛関係になったが、どの男性も弘前照子の結婚願望を叶えてはくれなかった。卒業後は見事に大手の出版社に就職。女性にしては昇進したし、人間関係でトラブルも無く、順調に過ごしてこられた。やがて小出版社を立ち上げてなんとか運営を軌道に乗せた。業界ではかなり名の通った存在となり、編集の若い女性には弘前照子に憧れる者が多かった。ただ多忙を極めたせいもあり、結婚だけが出来なかった。
 
 なぜ、弘前照子は行き遅れたのか。結婚相手に望む条件が悪かったのだ。
 多くは望まなかった。むしろ弘前照子が相手に望んだことは、たったひとつ。
 ひとつ以外はどうでも良かった。しかしそれゆえに、たったひとつを譲ることも折ることもできなかった。

 弘前照子が結婚相手に求めることは、「片手で軽くリンゴを潰せる男性」、この1点だけだった。

 どうも結婚条件が人とちょっと違うせいで、私は行き遅れてしまったようだわ。
 そう気付いたとき、弘前照子は90歳だった。
 行き遅れるにしても遅れすぎた。周回遅れどころか、一位の選手がゴールテープを切った瞬間に家で歯を磨いているくらい遅れていた。
 弘前照子は高級老人ホームの中庭で車椅子に座って日光浴、青い空をだまって見ていた。結婚を現実的に意識するようになってから、これと思った相手に試験として渡すために、肌身離したことのないリンゴを膝の上において。自然と撫でてしまう癖があるので、リンゴはすっかりツルッツルになっている。弘前照子はすでに時間の感覚が希薄である。朝ごはんとして出されたおかゆをすするのが難儀で永遠のように口に運んでいて、気付いたら、日光浴をしていた。さっきまでもまた、時間が突然逆さに進んでずいぶんと昔まで戻り、また一気に今に戻ったような気がした。弘前照子にとって昨日は今日であり明日だ。もしも次に変化があるとすればそれは、と考えていると昼の休憩時間が終わったらしく、職員が迎えに来て車椅子を押してくれた。目を閉じて開けると、広間にいた。寝てしまっていたのか、はたまた時間が飛び去ったのか、弘前照子には分からないし、どうでもいいことだ。今日はどんなレクリエーションなのだろう。ボール回しならこれまで8万回はやったし、『ふるさと』なんて1兆回は歌った。弘前照子はこの老人ホームの最古参になっていた。車椅子を止める場所もすっかり定位置。弘前照子は今でも全体が見えるように一歩引いた場所が好きだ。霞がかった遥か前方に老人ホームの所長が立ったらしい。真綿で栓をしたように聴こえの悪い弘前照子の耳に、所長の声がモワモワとおぼろげに聞こえる。

「今日からひとり新しい職員が増えます。平川世界一くんです」

 所長に紹介され、弘前照子ら老人たちの前に現れた男性は、身長2メートル弱、『ターミネーター2』の頃のアーノルド・シュワルツェネッガーばりの肉体を持った、新人ヘルパーだった。
 瞬間。弘前照子は吸い込まれるように平川世界一の目を見た。視力はすでにゼロ近似値ほどに衰えていたが、相当の力を眉間に集め、こめかみがギシギシと痛むくらい、見つめた。通常脳に送られる血液のうち何パーセントかを眼球に輸送してまで、見入った。
 平川世界一が弘前照子を見たのが分かった。そして、優しく微笑んだ。
弘前照子は急にツクンと痛んだ胸を押さえた。一瞬不整脈かと思ったそれは、ひさしく忘れていた感情だった。前かがみになった弘前照子は膝に乗せたリンゴを取り落としてしまった。リンゴはころころと前へ転がっていく。しかし弘前照子はリンゴを目で追うことをしなかった。自分の中に再び生まれた感情の名前に気がついたのだ。

 恋、しちゃったみたい。

「はじめまして、平川世界一です。特技は」

 平川世界一は弘前照子の落としたリンゴをすいっと拾い上げた。まさか、と弘前照子が思う間もなく、まず膨れた三角筋。上腕二頭筋が小山のように盛り上がり、それを支える三頭筋も含めると縄文杉のよう。皮膚を破らんばかりに存在を主張する腕橈骨筋・尺側手根屈筋・橈側手根屈筋はまるで、飛騨・木曽・赤石の日本アルプス。とどめの総指伸筋によって引き締められた五指全ての力が余すことなくリンゴへと伝わった結果、

ぐしゅわぁっ!

「素手でリンゴを潰すことです」

平川世界一は真っ白い歯で輝くような笑顔を浮かべた。実際、びしゃびしゃに飛び散った果汁が輝いていた。弘前照子の脊髄を雷がつらぬいた。70歳の頃にすっかり曲がってしまった背筋がビシーンと伸びた。同時に腰はふにゃりと力が抜け、腑の奥から吐息が漏れた。下半身がじんわり熱くなった。はじめて味わう本物の絶頂だった。若い頃に比べると刺激は劣るだろうが、老いた肉体にはむしろ温泉のようで心地よかった。老人用オムツを当てていなければ小水を漏らしたことに気付かれただろう。あまりの衝撃にガクガク震え始める全身。齢90の弘前照子の肉体は既に砂上の楼閣だった。恋は猛毒。弘前照子は、車椅子から崩れ落ちてしまった。

「だーめーだーよー平川君! お年寄りにショックを与えちゃあ!」

どたばた慌てている所長よりも速く、平川世界一は弘前照子のところへ駆け寄り抱き起こす。体に力の入らない弘前照子はされるがまま、平川世界一にしなだれかかる。ああ愛しい人。平川世界一の胸の中はリンゴの香りがした。まるで森の中にいるようだった。弘前照子の頭の中では、そよ風に吹かれた枝がチラチラと陽射しを遮っていたが、実際には蛍光灯の明かりでできた平川世界一の体の影に出たり入ったりしているだけだった。風を感じたのは、平川世界一がブンブンと弘前照子の体を振り回していたからである。

「大丈夫ですかー! しっかりしてくださーい!」
「だーめーだーよー平川君! お年寄りの肩ひっ掴んで全力で振り回しちゃあ!」

平川世界一のグローブのような両手に掴まれた肩。そこから熱を注ぎこまれているようで、弘前照子は体が熱くてたまらなかった。いますぐ服を脱ぎ捨てたかった。素肌で平川世界一の力強い筋肉を感じたかった。しかし声を出そうとしても喉が奥からふさがっていて、口の端から出るのはあぶくとなった唾液ばかりだ。

「聞こえますかー! 1×5はいくつかわかりますかー!?」
「だーめーだーよー平川君! お年寄りの耳元で野球応援ばりの大声出しちゃあ!」

周りが騒然としているのが何となく分かったが、平川世界一の硬い筋肉に包まれて弘前照子は陶然としていた。そのまま呆然と、音も景色もそして意識も、なぜだか全てが白く遠のいていくなか、平川世界一の声だけはいつまでもはっきりと聞こえた。弘前照子は声ならぬ声でそれに応えた。

いち かける ご ですって? えーっとね、 いんごが、  んごが、  んごっ……


 弘前照子、享年91歳。 死因、ときめき。


 弘前照子は行き遅れたまま逝った。しかしこの世の最後に感じたのはたしかに、幸せだった。色々あったが、幸せな一生だった。



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お題
りんご 三人称 5000字以内



 
OFZK

 日記 (696)
 つくり話 (26)
 蛇足 (3)

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