20130419 Fri
『長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ』


ドキュメンタリー映画を観る会(会員俺1人)です。
昨日に続きまして、老いてますますますます盛んな内容。
なぜか感想がやたら長くなってしまいました。良ければお付き合いください。

『長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ』
http://www.hadashinoflamenco.com/
poster.jpg

<あらすじ>
日本人フラメンコダンサーのパイオニア、長嶺ヤス子。
本番のステージや、多くの犬猫と生活を共にする東京~猪苗代の家を映し、
著書からも言葉を拾いながら、孤高のダンサーの“今”を追う。


<感想など>
@新宿 K's cinema
夕方。客、俺1人。久々にスクリーン貸し切りました。ありがとうございます。
この後に上映された作品がインディース系のイベント?だったらしく、
開場待ちの大勢の人たちに、僕1人が迎えられるという状況でした。セレブ感。違うか。

映画冒頭から“ドキュメンタリー映画”自体への疑問が、長嶺さんのモノローグで提示される。
「ここに映ったのは、あなた(監督)が見た私であって、本当の私ではないかもよ」
つまり、完全な客観というものは存在しない、ということ。
さらには、何かを経るたびに、オリジナルの真実は薄まっていってしまう、
ということも言っているようで。これを冒頭に挿入した監督の意気たるや。

昨日の『先祖になる』もそうだったんですが、
こちらの映画も東日本大震災の直後。そして、長嶺さんがガンの摘出手術を行った直後、
病室のベッドに横たわる長嶺さんのやや朦朧とした語りから始まります。
喜寿ってチラシに書いてあったから77歳でしょうか。
77歳の人間がガンの手術1ヶ月後に「踊る」とか言うものなんでしょうか。
僕はまだそんな経験ないですが、おそらく言えないだろうなぁ。
もうそれを感じただけで、この人は踊ることだけは止められなった人なのだ、
と分かってしまいます。

その手術1ヵ月後のステージが、僕の一番印象に残っているシーンです。
震災後で、スペイン人ダンサーたちが帰国してしまったフラメンコレストランで、
長嶺さんが、邦楽の和楽器伴奏をバックに、ショーをするのです。
映像ではほんの少し映るだけですが、それだけでもものすごい迫力と緊張感を感じます。
ショウ半ばで長嶺さんが衣装・メイク直しのためにロビーに出ると、
そこには感動のあまり号泣して泣き崩れている女性がいるのですね。
そりゃもう凄い泣き方なんです。
目の前で恋人や家族が殺されてもあんなに泣かないと思う。
どっちかっていうと、爪を一枚一枚はがされていく途中での泣き方でした。例えが悪いですが。
多分、長嶺さんのダンスによってこの女性は、
震災などで張り詰めていた心を、少しずつはがしてもらったんやと思います。
抑えられてた感情がむき出しになった結果があの号泣なんでしょう。
なぜ長嶺さんのダンスにそんなことが出来たかというと、
おそらく、長嶺さんが一番ギリギリ張り詰めたところで生きているからでしょう。

女性は、長峰さんが間近で衣装やメイクを直しながらスタンバイしていることに全く頓着せず号泣し続けるし、
長嶺さんは長峰さんで、涼しい顔して入りのタイミングを待ってるし。
それらを見て、ギリギリで生きるということは、
自分を剥き出しにし、どこか自分本位にしか生きられない、
ということなのではないだろうかと感じたシーンでした。

その後自宅でのインタビューシーンで、長嶺さんは、
被災地へ駆けつけるボランティアの人たちを批判します。
「震災が起こるまでにも可哀想な人たちは世界中にいたじゃないの。
 その人たちには何かしてあげたの?」
「私は世間話が嫌いなの。世間話をする人は大嫌い。
 テレビもないでしょ。人とも話さないし。
 だから今回の地震も、どれくらいひどかったか全然知らないの。
 アメリカで何かビルが崩れたのを知ったのも、事故から随分たってからだったわ」
おいおい、ちょっとそれはひどすぎるんじゃないのかと、正直思いました。
っていうかぶっちゃけ、クソババアとまで思いました。

が、ここから映画を観ていくにつれて、
クソババアという印象は、可愛いおばあちゃん、というところまで変わってしまいます。
自分でもあれれー? というくらいの変化です。
あれか、第一印象が悪いやつほど最終的には仲良くなれるという法則か?

長峰さんが多くの(マジで多くの)犬猫を飼っているのが映る場面でも、
ゴミ屋敷を築く迷惑ババアを見るようで。
自分勝手にやりたいことをやってるんだなぁ、と思ってたのですが、
驚くべきことに、そんな長嶺さんを慕って人々が集まってくるのですね。
解せぬ!解せぬぞ!!
人の顔色ばかり伺っているこの俺様に人は寄って来ず、
なぜにこんな自分勝手に生きるババアに人は寄るのだ!
と思ってたら、長嶺さんの著書からの抜粋が挿入されます。

「私は昔、猫を轢きました。私はその時、人間、そして自分の恐ろしさを知るのです。
 私は、猫を置いて逃げようとしたのです……」

大量の犬猫と、それ以上の大量の犬猫の位牌に囲まれ、
旦那はおらず、お手伝いさんを週に何度か呼ぶ生活。
前足が捩れた犬にも他と変わらぬ愛情をそそぎ、
餌を食べずに衰弱していく猫の面倒を看る。
そんな自分の手の届く範囲を守るような生活。

あ、そうか、この人は自分勝手なのかもしれないけれど、
自分勝手に生きるための責任は、全部引き受けているのだ。
そのための仕分けは終わらせてしまってあるのだ。
多くの人間に関わるようなことはしない。
その分、犬猫は助けられるだけ助ける、のような仕分け。
責任感というか、長嶺さんご自身は、
そんなことを責任なぞとは思っておらず、おそらくは当然のこととしてやっているのでしょう。

ラストシーン、長嶺さんが振り向くところで、
心からこの人のことをカワイイと思いました。……失礼かな?
花に囲まれ、犬を連れて、この人はきっとこのまま天国まで行くのだろうな、と。……失礼だな。
途中で著書から「若いころには世界的なダンサーになりたかったと思っていた」
という部分が抜粋されるように、おそらく77歳にしてこの境地に立ったのでしょう。
劇中では経歴には一切触れられませんが、絶対にドロドロした色々を経てきているはずです。
ドロドロを知った人間こそが着ける境地だと思うのです。僕の勝手な妄想かもしれませんが。

作家・五木寛之さんは長嶺ヤス子を“平成の河原乞食”と評したそうです。
ギリギリを生きる長嶺さんを、そりゃもう見事に言い当てた言葉だと思います。
余計なことをそぎ落としきった生き方を見ました。


批評を書くなら絶対に避けて通れない、ハチという犬のことに触れられませんでした……。
批評じゃなくて感想だから、という言い訳は立つでしょうが、……我、未熟なり。
そんなところで今日はおしまい。最後に1曲お聴きください。

Sutra meets Samba - Hobenpon


長峰さんは、フラメンコを通して、オリジナルのダンスを見つけていきましたが、
この曲は法華経とサンバを融合することによって、新しいものを見つけていますね。
予想裏切る、マッチ感。



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