非常事態だ。
いや、今までだって非常事態は山ほどあった。
けれど今回はレベルが違う。
まさか店長が誘拐に手を染めるとは思わなかった。
薄々、というかはっきりと車輪に火のついた自転車操業だったこの店だけど、
身代金に頼らなければいけないほど切羽詰まっていたとは。
店長も、何気にこの店のことを心配している母さんでさえ、
おくびにも出さなかったので、今まで気付かないでいてしまった。
名古屋の古書会館で行われる即売会に参加するという店長から頼まれて、今日は店番のアルバイトをしていた。
時間が空いたらレポートをまとめようとノートパソコンも持ってきてはいたんだけど、
さすがに日曜とあって来客が多く、対応に追われて時間は過ぎていった。
もちろん普段が暇すぎるというのもある。
けど最近、地元発行のカルチャー誌に小さいけれどこの店のことが載って、よく賑わうようになった。
休みになると少し遠くからもお客さんが来てくれて嬉しい。
古書店という体での紹介だったので、
古本をメインに探しに来て下さった方はたいがい、
真ん中のテーブルにドカンと載った文鳥の鳥籠、
鉢をはみ出して棚にまで増殖したキノコと苔、
入り口左手から奥にかけてそびえる爬虫類棚のトカゲたち、
を見た瞬間に引き返して行く。
それはそうだろう。何も知らなければ僕だって引き返す。
特に今日は店長不在ということで、メンフクロウの面倒まで頼まれたので、
もはや古本屋というより完全にペットショップだ。しかも怪しめのやつ。
近頃、地域の爬虫類フリークスのためにコオロギの累系飼育を本格的に始め、
さらにはゴキブリの種類も増やしたので、
棚の一番下からはいよいよ、化物でもはいずり出してきそうな音がしている。
カサカサシューシューカツンカツンリリリリリ。
たぶん、固めのやつが出てくると思う。
爬虫類フリークスのためとか言っておきながら、一番楽しんでいるのは店長自身なのは言うまでもない。
委託販売で置いてある、地域のアーティストが作った雑貨やアクセサリーを眺めていく女性、
自分で袋に分けるからサカ君は一応数だけ確認してね、とイエコオロギを買っていった馴染みの男性、
テーブルに置いてある実体顕微鏡でクマムシやミジンコを覗き込んで歓声を挙げる子ども
(無邪気な子どもたちにミジンコの正面が写った画像を見せてギャアギャア言わせるのは結構楽しい)、
海外文学のハードカバーを売りに来てくれた常連のおじいさん
(もちろん店長が帰ってきてから連絡することになった)。
途中で1階に入っているカフェの店長さんが差し入れを持ってきてくれたり、
僕の友達も何人かで遊びに来たり(昼ご飯の買い出しを頼んだりした)、
昼から夕方頃まではずっと自分以外に誰かが居て、落ち着く暇もなかった。
ただ今日も、メイン商品であるはずの本は1冊も売れなかった。
あまりに人が入れ替わり立ち替わりで来るので、途中からドアを開けっ放しにしておいた。
風鈴代わりに鳴るカウベルも良いものだなー、と思う。カロンカロンと。
春と夏の間のこの時期は、一日中風が気持ち良い。
人混みが苦手な黒猫の頁はいつの間にか外へ出て行ったようだ。
雑誌に大きく写真が載ったこともあって、頁を目当てに来る猫好きのお客さんは意外と多く、
店長のことよりも頁の不在を嘆く声の方が多かった。
ほんとに不憫な店長だ。
アイドル頁の代わりに今日はメンフクロウが大人気だった。
はじめは置物だと思うのか、フクロウが動くと悲鳴をあげる人が多くて楽しかった。
日も暮れてようやく人が途切れたのでドアを閉める。
頁を呼んだものの、この陽気に遠くまで散歩に行ったのか、ビルの中には居ないようだった。
人が途切れたということはそろそろだな、と思っていると、19時過ぎに店長が帰ってきた。
なんと店長にはお客を遠ざける潜在能力があるのだ。客商売なんてやめちまえ、と思わないでもない。
古本を10冊ほどビニールひもで束ねたものを両手にそれぞれ下げ、
口にもビニール袋をくわえたままで、器用にドアを開けて入ってきた。
こういう横着なところだけは凄いといつも思う。
ただ、いつもと違ったのは、
店長の背中に、幼い女の子がおぶさっていたことだ。
帳場に座ったままの僕の目の前を、
最大積載量を明らかにオーバーしているために真っ赤な顔でダラダラと汗をかき、
食いしばった歯の間からゼエゼエと荒い息を吐きながら、へっぴり腰のすり足で進む店長と、
店長の肉付きの悪い骨張った背中に揺られながら、静かに眠っている可愛らしい女の子がのろのろと通り過ぎていく。
突然のことに驚いたまま何も言えない僕を尻目に店長は、この混沌とした店の中の最も混沌とした一角、
荷解き前の本が山のように積み上がっているところへ仕入れてきた古本を置きさらに混沌を混沌とさせると、
その横のソファへ、女の子をそっと寝かせた。
女の子は目を覚ますことも寝返りをうつこともなく、すやすやと眠り続けている。
「あ、あの、店長……?」
僕の呼びかけを手で制した店長は、
自分のことをまだ若い若いと言っているものの実際にはもう結構いい歳なので、
すっかり上がってぜえぜえ絶え絶えになっている息の間に、
「車、置いて、くるで、ちょっと、待っとって」
とだけ言い残して、腰を押さえながらまた店を出ていった。
いや、あの、店長!? 店長ー!?
と叫びたい気持ちで一杯だったが、女の子を起こしてしまうとさらに事態がややこしくなってしまいそうだったので、なんとか抑えた。
ため息をひとつ。髪をボリボリボリとかく。
困ったときの店長の癖がすっかりうつってしまった。
ドアの外側に“準備中”の札をぶら下げる。店長が戻ってくるので、鍵はかけられない。
常連のお客さんはこんな札なんてお構いなしに入ってくるので、店長の犯罪がいつ明るみに出るか分からない。
当然だけど、店長だけをしょっぴいて欲しい。
僕は全く関係ないと言い張ることにしよう。事情聴取とか関わりたくないし。
え?アルバイト?何を言ってるんですか?僕はたまたま通りかかった通行人Aですよ?
よし、これでいこう。
店長なら自力でなんとか出来るはず。
体細いし、檻だって抜けられるだろう。たぶん。
僕と女の子だけが残され、再び静かになった店内。
リンリンシューシューと棚の下から虫の音が聞こえる。
日も暮れて少し寒くなってきた。
女の子が風邪をひくといけないと、帳場の中に丸めてしまわれていた膝掛けを、毛布代わりにかけてあげた。
コオロギの籠を暖めたり、フクロウの爪を切るときに簀巻きにしたのと同じ膝掛けだけど、
ちょっとそこは目をつむってほしい。まぁ寝てるから、目はつむってるんだけど。
まだ幼稚園くらいだろうか、子供らしい丸顔。
やや茶色がかってふわふわと柔らかそうな髪は、肩よりも少し長い。
淡いピンクのワンピースの上に羽織ったライムグリーンのカーディガン。とても女の子っぽい服装だ。
少し鼻が悪いのだろうか、息をするたび、ぴーぴー、と小さく音を立てるのが本当に可愛い。
そうか、店長もこの可愛さにやられてしまったに違いない。
たしかに昔から店長はロリコいや、これ以上は言うまい。
一応なりとも世話になっている情けだ。
今頃、滑舌の悪い喋りで身代金の要求でもしているのだろうか。
なんか素直に逆探知にひっかかりそうな気がする。
日本の警察にかかれば店長なんて赤子の頬をぷにぷにするくらい容易く捕まるだろう。
まぁこの時点で自首してくれればまだ何も始まっちゃいないのだし、
10年くらいすれば娑婆に出てこれるのではないだろうか。
10年後。僕は何をやっているのだろうか。
身代金を要求しなければ立ちいかない状況にはなっていないことを願う。
女の子の顔を眺めながら、店長にどうやって自首をすすめたものか悩んでいると、
入り口にぶら下げてあるカウベルがカンカローン!と派手に鳴った。
最近の警察は仕事が早いなと感心しながら振り向くと、ズカズカ入ってきたのは制服姿の女の子。
僕の妹、猪口(チョコ)だった。
「けんちゃーん、お腹すいたー、ラーメンおごってー、チャーシューと煮卵トッピングでー」
もはや店長にたかるのが挨拶代わりになっているのが身内ながら恐ろしい。
部活帰りのチョコは、ジャージにスポーツバックを斜めがけした格好で、
オッスおにいおつかれーぼしゅしゅしゅーっ、と謎の効果音を出しながら指定席であるソファの方へとやってきて、
当然そこに寝かされている女の子に気付いた。
「……ゆっ、誘拐!?」
さすが我が妹、話が早かった。
「あのロリコンめ! とうとう手ぇ出しやがったな!」
ああ言っちゃった。
兄妹で作戦会議が始まった。
僕がレジ内のイス、チョコがお客さんの側に置いたスツール、帳場の机を挟んでのヒソヒソ話。
チョコのひざの上では、いつの間にか戻ってきた頁が丸くなっている。
チョコは実に自然な動作で、頁の顎の下をこちょこちょとくすぐる。うにゃにゃにゃ。
女の子は熟睡しているようで、ちょっとやそっとじゃ起きないだろうけれど一応声は抑える。
万が一起こしてしまったときの状況説明がめんどくさい。
「けんちゃん、あとどれくらいで戻ってくんの?」
「チョコとほとんど入れ替わりで出てったばっかなんだけど」
「何しにいったん? あ、分かった、身代金の要求ってやつか」
「とりあえず車置いてくるってだけ言ってたよ」
「じゃあなんだろう、足がつかないように車を海に沈めにでもいったのかな」
「いや、水出しの麦茶パックを使い回す店長のことだよ。証拠隠滅のためといえ、そこまでするとは考えにくいな」
「そっか、親指に穴の空いた靴下を左右反対にはいて誤魔化すようなけんちゃんだもんね。それは無いか」
まためんどくさいことに巻き込んでくれたお礼にと店長のことを貶めてみた。
さて、店長をどうやって自首させるか、という問題だったが、
これはまあ、母さんに頼めば間違いないだろう、
という予想通りの結論に落ち着いた。
「けんちゃん、お母さんには頭あがらないからね」
「あがらないどころか、限界まで下げてるよね」
「お母さん、きっと弱み握ってるんだろうなぁうふ。教えてほしいなぁうふふ」
うふふふうふふふふ、と悪役感満点の笑みをダダ漏れにしながらチョコが言った。
弱みを握って一体どうするつもりなのだろうか。想像するだに恐ろしい。
ことが終わったあと、きっと店長には尻毛の一本すら残ってはいないだろう。
店長、どうか安らかに成仏してくれ。
すると突然ドアがビタシバターン!と威勢よく開き、
カウベルがこれが正解ですぞーとばかりにカロンカローン!!と鳴り響いた。
準備中の看板を堂々と無視した上、ここまで気持ちよくベルを鳴らす人物を我々は一人しか知らない。
「警察だ! この店、摘発しますんでよ・ろ・し・く!」
母さんは今日もノリノリだった。
なんて間の良いボケだろうか。
「令状はあるの?」
「そんなもんあとからいくらでも取り繕えますから!」
最近の警察は仕事がザルだ。
刑事(母)は、ドラマでよく見るような動きでサササッと店内に入ってきた。
驚いた頁が威嚇を始めるほど本格的なガサ入れだった。
「むっ、あれはワシントン条約で取引の禁止されているアルマジロトカゲ!?」
「規制が厳しくなる前に手に入れた個体から繁殖させてるから問題ない、って母さんも知ってるでしょ」
「むむっ、これは、危ない草!?」
「パセリです」
「むむむっ、じゃあこの、ロリっ子は何なの!?」
「あ、それは“店長が”誘拐した子なので僕たちは無関係です」
「誘拐!? なにそれ楽しそう!」
「そうだお母さん、けんちゃんに自首するように言うてよ。何か弱み握っとるんやろ」
「けんちゃんの弱みって、あの人、弱みしかないじゃん」
そう言われてみればそうだった。思わず、あぁ、と見合う僕とチョコ。
しかしここで非常事態が。
母さんが元気にボケ倒したおかげで、とうとう女の子が目を覚ましてしまったのだ。
さていよいよめんどくさいことになるぞ、と嫌々ながら覚悟を決めた瞬間。
「おはよう、よく眠れた?」
「あ、こんにちは、お久しぶりです」
あっけにとられる僕たちに母は平然と、
「けんちゃんの弟くんの、娘さんだよ」
「え? つまり、けんちゃんは姪っ子さんを誘拐したってこと?」
「……あれ、そうなのかな?」
「母さん、しっかり!」
「けんちゃん、ついに身内にまで迷惑をかけて」
「いやそれは前々からでしょ」
「あ、そっか。全方位的に迷惑かけてるもんね」
僕がかけてあげた毛布をきちんと畳んだのち、
ソファから起き上がった女の子が、あらためて自己紹介をしてくれた。
「はじめまして。けんちゃんの姪の栞(しおり)です。けんちゃんがいつもご迷惑をおかけしてます」
「り、利発そうなお子さんだー!」
「似てない! 似てなさすぎるよ! これホントに店長の姪御さんなの?」
「けんちゃんの弟くんには似てるんだけどねぇ」
「え、何? じゃあ、けんちゃんと弟さんが似てないってこと?」
「チョコ、けんちゃんはね、橋の下で拾われてきた子なのよ」
「……あ、なるほど」
「っていうか、こんな小さい子に、開口一番「ご迷惑をおかけしてます」って言わせるってどんだけなの」
「弟くんが教えたんじゃないかしら、とりあえずけんちゃんのことに関しては謝れとかなんとか」
「間違いないね」
親類の悪口をニコニコと聞いていた栞ちゃんが、ところで、と口を開いた。
何から何まで仕草が大人っぽい。
身近に絶対的な悪い見本がいると、人はこうも正しく育つのか。
「けんちゃんはどこですか?」
「けんちゃんはね、お空のお星様にもがもが」
「店長ね、今、車を停めに行ってるから、もうすぐ戻ってくると思うよ」
トラウマ級の冗談を言おうとした妹の口を慌てて押さえた。
「すみません。いっそ早く星になった方が皆様にこれ以上ご迷惑をおかけしないで済むものを」
「……栞ちゃん、今、何歳?」
「はい、7歳です」
超級小学一年生だった。
もしかすると店長の精神年齢は全部この子に回ってるのかもしれない。
と、ひとしきり場が落ち着いたところで、間が悪いことで有名な店長が戻ってきた。
もう少し早く戻ってきていたら僕とチョコで警察に突き出せたというのに。その方が面白いし。
再び両手には大量の古本を抱えて、足で器用にドアを開けている。
「ありゃ、お早いですね。
そうしてらっしゃると、まるで可愛らしいお孫さんを連れてらっしゃるようにしか見えないというか」
「まだそんな歳ちゃうわー!!」
「むぎゅっ!」
母さんの放ったコークスクリューは店長の顔面にクリーンヒットし、
誘拐犯は抱えた本ごと店の外の階段を転げ落ちていった。
そうしてまた、星がひとつ増え
The Strokes - Someday
れば良かったものの、悪運の強い店長は無事に生還した。
母さんと妹には先に車に行ってもらい、今日の引継ぎ簡単に済ませる。
「あ、店長、一件買い取りの依頼があったんですけど」
真っ赤に染まったティッシュを鼻から抜いている店長に向かって買い取り依頼の本を示す。
赤く腫れ上がった鼻の頭を痛そうにさすりながら横目で本を確認して店長が言うには、
「これ、いつものおじいちゃんやろ。サカがやってくれても良かったのに」
「いやいや、それはまずいでしょ」
「わしからお前に教えることはもうない。あとは自分で学べよ少年。ふぉっふぉっふぉげろばぁっ!」
丸椅子に座ったままふんぞり返ってこけるというお約束を見事にやってのけた店長。
さらに、突然の音に驚いたメンフクロウが店長に襲い掛かって、
レジの一角が凄惨な殺人現場のようになった。
思わず頭をかいてソファの方を見ると、
読んでいたエドワード・ゴーリーの絵本から顔を上げた栞ちゃんが、
困ったような笑顔で、すみません、ペコリと頭を下げた。