20141001 Wed
弘前照子、ときめきに死す。


 弘前照子は行き遅れた。

 弘前照子の容姿は悪くない。どちらかといえば美しいほうである。芸能人とまではいかないが、好きな見た目だと言う男は多いだろう。
 性格だって問題ない。酒や博打はもちろん、ほかの悪い癖もない。優しく健気、それでいて明るく快活。妻としても、母としても、理想的な性格をしている。
 家柄。真面目な父、優しい母。絵に描いたような幸せな家庭だった。両親ともに人格者で、弘前照子を一所懸命に育てた。弘前照子には2歳上の兄がいる。兄は職場で出会った女性と結婚し、子どもを1人授かった。両親、兄夫婦、少しの喧嘩はもちろんあったが、それらを乗り越え仲睦まじくやっていた。

 幼稚園生の頃の弘前照子の夢は、およめさんになること、だった。これは当時の幼稚園の女子の間での流行でもあったのだが、弘前照子は幼いながらも真剣におよめさんに憧れていた。
 小学生の弘前照子は、人気の女子たちとも、暗めの女子のグループとも、そして男子とも、分け隔てなく仲良く遊んだ。裏表のない明るい性格の弘前照子は皆から好かれていた。かと言って、代表に祭り上げられるようなことはなく、そのような状況になったときも上手くかわした。つねに全体の様子を見ているような、冷静な目を持っていた。この時期、女子は一気に大人びていく。弘前照子もだんだん男子との付き合いに対して意識的になっていった。恋愛というものに憧れを抱いた。たとえばテレビドラマ、映画、少女マンガや、先に中学生になっていた兄の話の影響もあり、いっぱしに理想のタイプも出来上がってきた。さすがにもう口にすることはなかったがやはり、およめさんになること、芯の部分では変わらず夢見ていた。
 中学生のとき、弘前照子に初めての恋人が出来た。
 弘前照子は小学校からの友人の誘いでテニス部に入っていた。弘前照子の中学のテニス部は県内でも強豪で、練習はかなり厳しいものだった。友人がひとり、またひとりと辞めていくなか、弘前照子は持ち前の努力と根性で喰らい付いた。結果、弘前照子はメキメキと力を伸ばしていった。もともと運動神経は良かったが、天賦の才があったのだろう。1年生にして、夏の大会に異例の抜擢されたのだ。2年の先輩とダブルスを組み見事に県大会を突破、なんと全国大会まで進出することになった。慣れない環境での疲労がたたり、1回戦ストレート負けを喫することになるのだが、それでも快挙であることに間違いはなかった。
 さすがに中学生ともなると、生徒全員と仲良くやっていくというのは不可能になる。ましてや夏の大会で目立ったせいもあり、弘前照子は孤立することになってしまった。元々一歩引いた場所に身を置いていたし、明確にイジメの標的になるような人間ではなかったので、そこまで酷いものではなかったが、もちろん居心地は悪かった。特に部活には居づらくなり、顧問の説得を振り切って退部した。部活を辞めても、一度離れていった友人たちが戻ってくることはなかった。
 家に篭りがちになった弘前照子のことを、妹思いの兄が心配するのは当然だった。兄は自分の友人を紹介することで、弘前照子のことを元気付けようとした。弘前照子の兄は吹奏楽部に所属していたため、文化系の友人が多かった。皆とても優しい人ばかりだったが、なかでも弘前照子に良くしてくれたのは、文芸部で部長を務めていた先輩だった。小説の知識が豊富なのはもちろん、先輩には姉と妹がいて、弘前照子の好きな少女マンガについてもずいぶん詳しく、話が盛り上がることが多かった。しかし知識を鼻にかけることもなく、どちらかというと弘前照子の話の聞き手に回ってくれるような、謙虚で物静かな性格だった。理想のタイプとは少し違ったが、弘前照子は徐々に先輩に惹かれていった。
 弘前照子と先輩が深い仲になるのは時間の問題だった。とは言ってもそこは中学生、付き合い始めてもやることは今までと変わらずお喋りくらいで、恋人らしいことといえば探り探りでキスをしただけだった。そのときのことを弘前照子ははっきり覚えている。夕日の射す部屋でも分かるくらい、弘前照子の頬は果実のように赤く染まっていた。先輩が兄とは別の高校に進学すると、やがて会う回数も少なくなり、いつの間にか恋は自然消滅してしまった。若い勢いと言われればそうかもしれないが、弘前照子は先輩との思い出を今でも大切にしている。
 高校では先輩への想いを引きずって文芸部に入部した。運動部と違ってそれぞれがマイペースに活動できる自由さは、弘前照子にとって心地良いものだった。3年間通じて文芸部に在籍し、主に詩を書いた。充実した楽しい部活だった。どこかで先輩とまた会えることを願っていたが、叶わなかった。中学の反省から、クラスでは目立たず沈まず、ちょうど良い場所に収まっているように努めた。おかげで何事もなく卒業まで過ごすことが出来た。容姿の悪くない弘前照子は黙っていても男子生徒に告白されることが何度かあったが、先輩への想いを断ち切れず、その全てを断った。
 弘前照子は隣県の国立大学の文学部に合格した。それを機に1人暮らしを始め、キャンパスライフを謳歌した。新しい生活のなかで、先輩のことはいつの間にか吹っ切れていた。引き続き文芸サークルに所属し、積極的に同人誌などに投稿もした。何人かの男性と恋愛関係になったが、どの男性も弘前照子の結婚願望を叶えてはくれなかった。卒業後は見事に大手の出版社に就職。女性にしては昇進したし、人間関係でトラブルも無く、順調に過ごしてこられた。やがて小出版社を立ち上げてなんとか運営を軌道に乗せた。業界ではかなり名の通った存在となり、編集の若い女性には弘前照子に憧れる者が多かった。ただ多忙を極めたせいもあり、結婚だけが出来なかった。
 
 なぜ、弘前照子は行き遅れたのか。結婚相手に望む条件が悪かったのだ。
 多くは望まなかった。むしろ弘前照子が相手に望んだことは、たったひとつ。
 ひとつ以外はどうでも良かった。しかしそれゆえに、たったひとつを譲ることも折ることもできなかった。

 弘前照子が結婚相手に求めることは、「片手で軽くリンゴを潰せる男性」、この1点だけだった。

 どうも結婚条件が人とちょっと違うせいで、私は行き遅れてしまったようだわ。
 そう気付いたとき、弘前照子は90歳だった。
 行き遅れるにしても遅れすぎた。周回遅れどころか、一位の選手がゴールテープを切った瞬間に家で歯を磨いているくらい遅れていた。
 弘前照子は高級老人ホームの中庭で車椅子に座って日光浴、青い空をだまって見ていた。結婚を現実的に意識するようになってから、これと思った相手に試験として渡すために、肌身離したことのないリンゴを膝の上において。自然と撫でてしまう癖があるので、リンゴはすっかりツルッツルになっている。弘前照子はすでに時間の感覚が希薄である。朝ごはんとして出されたおかゆをすするのが難儀で永遠のように口に運んでいて、気付いたら、日光浴をしていた。さっきまでもまた、時間が突然逆さに進んでずいぶんと昔まで戻り、また一気に今に戻ったような気がした。弘前照子にとって昨日は今日であり明日だ。もしも次に変化があるとすればそれは、と考えていると昼の休憩時間が終わったらしく、職員が迎えに来て車椅子を押してくれた。目を閉じて開けると、広間にいた。寝てしまっていたのか、はたまた時間が飛び去ったのか、弘前照子には分からないし、どうでもいいことだ。今日はどんなレクリエーションなのだろう。ボール回しならこれまで8万回はやったし、『ふるさと』なんて1兆回は歌った。弘前照子はこの老人ホームの最古参になっていた。車椅子を止める場所もすっかり定位置。弘前照子は今でも全体が見えるように一歩引いた場所が好きだ。霞がかった遥か前方に老人ホームの所長が立ったらしい。真綿で栓をしたように聴こえの悪い弘前照子の耳に、所長の声がモワモワとおぼろげに聞こえる。

「今日からひとり新しい職員が増えます。平川世界一くんです」

 所長に紹介され、弘前照子ら老人たちの前に現れた男性は、身長2メートル弱、『ターミネーター2』の頃のアーノルド・シュワルツェネッガーばりの肉体を持った、新人ヘルパーだった。
 瞬間。弘前照子は吸い込まれるように平川世界一の目を見た。視力はすでにゼロ近似値ほどに衰えていたが、相当の力を眉間に集め、こめかみがギシギシと痛むくらい、見つめた。通常脳に送られる血液のうち何パーセントかを眼球に輸送してまで、見入った。
 平川世界一が弘前照子を見たのが分かった。そして、優しく微笑んだ。
弘前照子は急にツクンと痛んだ胸を押さえた。一瞬不整脈かと思ったそれは、ひさしく忘れていた感情だった。前かがみになった弘前照子は膝に乗せたリンゴを取り落としてしまった。リンゴはころころと前へ転がっていく。しかし弘前照子はリンゴを目で追うことをしなかった。自分の中に再び生まれた感情の名前に気がついたのだ。

 恋、しちゃったみたい。

「はじめまして、平川世界一です。特技は」

 平川世界一は弘前照子の落としたリンゴをすいっと拾い上げた。まさか、と弘前照子が思う間もなく、まず膨れた三角筋。上腕二頭筋が小山のように盛り上がり、それを支える三頭筋も含めると縄文杉のよう。皮膚を破らんばかりに存在を主張する腕橈骨筋・尺側手根屈筋・橈側手根屈筋はまるで、飛騨・木曽・赤石の日本アルプス。とどめの総指伸筋によって引き締められた五指全ての力が余すことなくリンゴへと伝わった結果、

ぐしゅわぁっ!

「素手でリンゴを潰すことです」

平川世界一は真っ白い歯で輝くような笑顔を浮かべた。実際、びしゃびしゃに飛び散った果汁が輝いていた。弘前照子の脊髄を雷がつらぬいた。70歳の頃にすっかり曲がってしまった背筋がビシーンと伸びた。同時に腰はふにゃりと力が抜け、腑の奥から吐息が漏れた。下半身がじんわり熱くなった。はじめて味わう本物の絶頂だった。若い頃に比べると刺激は劣るだろうが、老いた肉体にはむしろ温泉のようで心地よかった。老人用オムツを当てていなければ小水を漏らしたことに気付かれただろう。あまりの衝撃にガクガク震え始める全身。齢90の弘前照子の肉体は既に砂上の楼閣だった。恋は猛毒。弘前照子は、車椅子から崩れ落ちてしまった。

「だーめーだーよー平川君! お年寄りにショックを与えちゃあ!」

どたばた慌てている所長よりも速く、平川世界一は弘前照子のところへ駆け寄り抱き起こす。体に力の入らない弘前照子はされるがまま、平川世界一にしなだれかかる。ああ愛しい人。平川世界一の胸の中はリンゴの香りがした。まるで森の中にいるようだった。弘前照子の頭の中では、そよ風に吹かれた枝がチラチラと陽射しを遮っていたが、実際には蛍光灯の明かりでできた平川世界一の体の影に出たり入ったりしているだけだった。風を感じたのは、平川世界一がブンブンと弘前照子の体を振り回していたからである。

「大丈夫ですかー! しっかりしてくださーい!」
「だーめーだーよー平川君! お年寄りの肩ひっ掴んで全力で振り回しちゃあ!」

平川世界一のグローブのような両手に掴まれた肩。そこから熱を注ぎこまれているようで、弘前照子は体が熱くてたまらなかった。いますぐ服を脱ぎ捨てたかった。素肌で平川世界一の力強い筋肉を感じたかった。しかし声を出そうとしても喉が奥からふさがっていて、口の端から出るのはあぶくとなった唾液ばかりだ。

「聞こえますかー! 1×5はいくつかわかりますかー!?」
「だーめーだーよー平川君! お年寄りの耳元で野球応援ばりの大声出しちゃあ!」

周りが騒然としているのが何となく分かったが、平川世界一の硬い筋肉に包まれて弘前照子は陶然としていた。そのまま呆然と、音も景色もそして意識も、なぜだか全てが白く遠のいていくなか、平川世界一の声だけはいつまでもはっきりと聞こえた。弘前照子は声ならぬ声でそれに応えた。

いち かける ご ですって? えーっとね、 いんごが、  んごが、  んごっ……


 弘前照子、享年91歳。 死因、ときめき。


 弘前照子は行き遅れたまま逝った。しかしこの世の最後に感じたのはたしかに、幸せだった。色々あったが、幸せな一生だった。



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お題
りんご 三人称 5000字以内



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